皆さんこんにちは。南大阪在住、ブログの管理人「カズ」です。今回はいろいろ考えた結果、昨年4月に記事にした、四国八十八ヶ所の旅を改訂したものを発表します。生前の父が最も気にしていた文章であること、また、昨年の発表時には写真の張り方が不得手で、読みづらい構造になっているところ改善した上でもう一度発表したいと私自身が思ったことです。また、毎回、申しておりますが、父親が過去記録した旅行記を息子の私がブログという形で皆さんに公表しています。現在と状況が変わっている可能性があることをご了解ください。
スマホでブログをご覧になっている皆さんへ。本文のあとに旅行の行程表がありますが、それを見る際はスマホを横にしてご覧になって下さい。縦のままだとちゃんと表示されません。よろしくお願いします。

 

1995年2月12日~13日 私達はツアー四万十川、足摺岬、桂浜の旅に参加した。四国へは初めて航空機の利用だった。関空から40分で高知空港に着陸。四万十川の清流に遊び、足摺岬で1泊。高知からのバス旅行は、実に長く感じた。新米のガイドによる案内は、手本を棒読みするだけで、全く退屈なものだった。

四万十川
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  足摺岬灯台
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13日、早朝、任意に岬を散策したが、私達も38番札所金剛福寺に参詣し、灯台付近から椿の回廊を経て、白山洞門展望台に歩を進めた。この日は天候状態も悪く、太平洋からまともに吹き付ける風が強く、観光も苦労だった。金剛福寺は2008年7月にも落ち着いてお参りすることが出来た。

金剛福寺(三十八番)
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  白山洞門を望む
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  竜串
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  桂浜
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四国は、源平の合戦に敗北した平家の落人達が、多数、山深くに逃れ、捲土重来を期した土地である。多分、建て前はそうだったと思う。四国を横断する中央山地は険峻で人を寄せ付けず、千尋の渓は連続して歩行も困難である。都で栄華を極めた平家の公達が、追手の恐怖に戦きつつ、難を逃れて據点を造築することも、それは極めて困難だったと察しがつく。歴史を繙いても、平家が復活した事実は見当たらない。結局、彼らは僻地に留まり、世間を避ける生活を長年月継続し、安住することになったものと思われる。
私は権力の虜になり、戦に明け暮れ、破局に追い込まれた人達とその子孫を哀れに思う。現在は事情は全く変化しているが、落人の子孫がどんなところで生活しているのか、出来れば知ってみたいと思う。現在は開発も進み、交通事情も変化して、文字通り隔世の感があると思うが、四国の山間部はどれ程様子が変わっているのか、失礼な言い方であるが、興味を持っている。